Life is short, live your life.

♣︎いい日旅立ち

ここ数日の出来事が頭の中をグルグル駆け巡っていて、イマイチ上手くまとまるか分からないのだけれど、とりあえず気持ちが冷めないうちに書いておこうと思う。

今日、島の保育園に約10年間勤務した、御蔵出身の御蔵が誇る生粋の御蔵女子、N先生が離島した。月末にはご結婚予定とのこと、(すぐ近い将来の)旦那さんも日帰りで迎えにいらして、快晴で海が凪いだこの日、文字通り盛大な見送りとなった。

橘丸と見送り準備の友人船
橘丸と見送り準備の友人船
紙テープで見送り
紙テープで見送り
橘丸を追いかける
橘丸を追いかける
4艘の船が追う
正にいい日旅立ち
道路にはためく大漁旗
道路にはためく大漁旗

後にも先にもこんなに盛大な見送りで旅立つ人は彼女だけなのではないだろうか。寂しいけれど、これはお祝いなんだ。ありがとうNちゃん、御蔵を盛り上げてくれてありがとう。島全体がそんな雰囲気に溢れていた。

「青春時代は全部御蔵に捧げた。御蔵に戻って来る前は東京に御蔵の仲間がいたし、戻って来てからも仲間が大勢帰って来た。それが幸せだった。」

生粋の御蔵女子N

先日行われた新歓BBQの時に、そんな言葉を彼女の口から聞いた。彼女が背負ってきたものや、ここに至るまでに様々な葛藤があったのだろうと思うと、(以前、実際に本人に伝えたこともあるが)どうしてもこれを書かずにはいられなかったのだ。

Nちゃん、あなたの人生、あなただけのもの。誰にも決めさせないで。自分で選んだ自分自身の人生を生きて。

♣︎がんばっても報われない社会が待っている

先の東大入学式で語られた上野千鶴子さんの祝辞が随分と話題になった。全文を読んで計り知れないほどの感銘を受けた。特に私の琴線に触れたのがこの部分。

ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞

性別による役割の違いや能力の差(主に体力面)があることは周知の事実なので、性別に関係なく全てを同等に、とは最初から思っていない。しかし、今のこの国を見ていると、何かにつけて女性の方が報われないことが明らかに多いと感じる。

結婚一つとってみても、なぜ女性の方が仕事を辞めなければならないのか。なぜ男性側の現状維持が優先されるのか。男女の立場を入れ替えた途端、周囲に叩かれるのは何なのか。

これは決して男性vs女性の図なのではなく、同性同士による攻撃もある。実際に我が家は夫が専業主夫をして、私が勤めに出ている時期があったが、なぜか周囲がこれを放っておいてはくれなかった。夫は「ヒモ旦那」と揶揄され続けたし、女友達でさえ夫に「早く仕事見つけなよ(=外で働きなよ)」などと言ってきたものだ。二人で(つまり家族で)決めて納得しているのだから、外野がどうこういうことではないし、そんなこと戯言として気にしなければいいだろう、とも思ったが、無視だけでは済まないほどのプレッシャーがあったのだ。

現に実際、立場を逆にしてみたら誰も何も言ってこなくなった。この時点で、今の日本ではまだまだいわゆる「多数派」に入る方が生きやすいことを実感する。夫が外で働き、妻は家で家事をしながら夫の帰りを待つ。いつの時代の話だという感じだが、大多数の周囲がやっていることに合わせた方が生きやすいのだ。不本意だが。

しかし、だ。なぜキャリアを諦めなければならないのは女の方なのか。という思いが沸々と沸き上がる。なぜ両立してはいけないのか。自分の人生は一体何だったのか。キャリア・結婚・子ども、全てを手に入れようとすると「欲張るな」と言われる。ここでも「私は〇〇を諦めたんだから、あなたもそうすべき」という女性からのピアプレッシャーが存在する。

あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと…たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞

「努力が報われた」と思えるのは、そういう環境があったから。そう思わせてくれる環境に幸運にも「たまたま」あなたがいたからなのだと、そう思っている人には言いたい。

♣︎寛容な社会を目指して

先日、台湾で同性婚を認める法案が可決されたことが話題となった。アジアでは初だそうである。例によって、この件にも私は感銘を受けたのであるが、ネット上でこんな声を目にする。

「少数派の意見を認めてあげなきゃいけないのはわかるけど、世界全体が人口減少に向かっている訳だし、なんだかねぇ…」

「よそはよそ、うちはうち」

ネット上の声から

…ため息が出る。日本はこれほどまでに不寛容な国だったのか。これも先述の内容に重なる部分があるが、そう思っている人たちに言いたい。そう思えるのは、あなたが「たまたま」婚姻等における男女の立場において「多数派」だっただけなのであって、「少数派」の人たちだって皆が皆望んでそうなった訳ではないのだ、と。全て「たまたま」だ。(多数派、少数派という言い方が相応しいかは分かりませんが、客観的な数値からそのワードを選びました。)逆に言うと、「たまたま」はいつひっくり返るか分からない。つまり、自分や自分の身近な人が何らかの点で「少数派」の立場にいくことも十分ありえる話なのだ。

不寛容は絶対自分に返ってくる。ここまでつらつらと書いて、話にまとまりがないと感じるが、つまり私が言いたいことはこれだ。

「人の人生に口出しするな」

結婚した人、結婚しない人、結婚したい人、結婚したくない人、子どもがいる人、いない人、要らない人、欲しくてもできない人、仕事を続ける人、辞める人、転職する人、起業する人…など、とにかく多様な人がいる。多様ではあるが、どんな人にも共通しているのが、色々考えて悩んで迷って辿り着いたのがそこなのだ。だから簡単に、自分や多数派と違うからといって、「どうして〇〇なの?」「なんで◇◇しないの?」などとは言ってほしくない。

♣︎「あなたには失望した」は無視!

人生の要所要所で「あなたにはガッカリ」「失望した」などと言ってくる人がいる(信じられないけど結構いる)。これを言われると、真面目で誠実であればある人ほど、ものすごく落ち込む。でもこれは、相手が勝手に期待して、自分の思い通りにその人が動かないから言ってくる台詞だそうだ(テストステロン先生もそう仰っている)。そういう人たちには言ってやろう。「ご自分がそうされたらどうですか?」と。

自分の人生設計を考えた時に、考慮する要素はただ一つ。「自分」だと思う。自分には自分の人生がある。責任を感じ、負わなければいけないのはそれだけだと思う。つまり自分の人生。

♣︎Life is short, so we must enjoy.

大好きで大切な先輩が亡くなって一年が経った。その日から、自分のための人生を生きようと決めた。教員時代、生徒に繰り返し話してきたこと。「人生は短い。明日死ぬかもしれない。だからやりたいこと全部やらなきゃ。」だけど実は自分でもできていなかった。

でも…この一年で少しずつだけど、進めていると思う。だから、繰り返しになるけどNちゃんへ。

あなたの人生、あなただけのもの。誰にも決めさせないで。自分で選んだ自分自身の人生を生きて。

Nちゃんのこれからの人生も明るくありますように…!!!