妊娠出産大作戦

侍JAPANがWBCで歴史的優勝を果たし、大相撲春場所真っ只中の3月後半の日、両国国技館のある墨田区にて(春場所は大阪ですが)第一子を出産しました。

結婚して約10年、私の経験が自分自身も含めて今後の誰かの何かの役に立てればと思い、まとめることにしました。長いですが、ご興味ある方は、お付き合いいただければと思います。

結論から言うと、私は今回の出産までに流産を3回経験し、その後不育症と診断されました。その間、島内だけでも診ていただいた先生は3人。水天宮を訪れたのも複数回。読んだ『初めてのたまごクラブ』(妊娠初期向けの雑誌)は8冊(2年分)。以前は妊娠中の飲み物の主流はルイボスティーだったのに、ポリフェノールがあまり良くないという研究結果が出てきて、妊娠中のルイボスが避けられるようになったのがここ数年の流れ。『初たま』からルイボスの文字が消える遍歴まで見届ける程の長い期間読みました。一回しか出産していないのに妊娠初期のプロになったと自負しております笑。最終的には、都内の病院で心から信頼できる先生に出会い、出産することができました。ここに至るまでに多くの方に手助けをいただき、感謝しかありません。それでは振り返ろうと思います。

一般より長めに学生生活を送った私が正式に就職し、教員になったのは27歳の時。既にアラサーでした。しかし大学進学率が8割と言われている現在、修士・博士課程と進む人も少なくない中、私のようなパターンも稀とは言えない時代かと思います。夫と出会ったのが29歳、そして結婚したのが31歳の時です。右も左も分からなかった仕事が、やっと楽しくなりやり甲斐も出てきたのが正にこの頃。アイディアが褒められたり、責任あるポジション任せられたり、仕事を始めて最初の数年というのは誰でもそうではないでしょうか。そんな時いきなり、さあ子ども作ろうとはなりませんでした。そして異動したのが念願だった(←当時は笑)中高一貫校でした。最先端の教育をいずれ島に持ち帰れると当時は本気で思っていました。

しかし憧れだった現場は自分の思い描いていたものとは全く違うものでした。ただただ意味もなく、こなさなければならない仕事が増えただけ。そしていわゆる「〇〇の間は現場離れないでね(=子ども作らないでね)」攻撃に遭います(来年は○年の担任してもらうからね、〇〇の引率に行ってもらうからねetc)。はっきり子ども作るなと言われれば、それは立派なセクハラだと言えるのでしょうけど、そこは相手も理解しているので、そういう言い方でこちらの心を抉ってくる訳です。妊娠初期の体調不良で休みがちな人や、育休明けの時短で働く人は分かりやすく煙たがられる現場でした。そして実際問題、家で過ごす時間よりも職場にいる時間の方が長い日々が続き、ついには精神を病み、カウンセリングや精神科に通い自分を保つのが精一杯で、とても家族計画まで頭が回る状態ではありませんでした。

結局私は仕事を辞め、夫の故郷である島に戻ります。この時34歳です。では環境を変えたからすぐに子どもをと考えられるかと言うと、もちろんそんなことはありませんでした。まず私自身が無職になったのだから、働いて生活基盤を築かなければなりません。夫は夫で職場で理不尽な目に遭い、互いに互いを支えるので精一杯な数年間でした。そして気付けば38歳。高齢出産と言われる35歳をとっくに過ぎている歳になっていました。

そして恥ずかしながら、私はこの頃まで妊娠の仕組みを正しく理解していませんでした。不妊や卵子の老化、排卵日や基礎体温などの知識は朧げにあったものの、実際に卵子が生きているのは24時間、精子は48時間、つまり月にたった1回(1日)しか妊娠できるチャンスが無いということに。つまり年間にするとたったの12回しかチャンスはないということなのです。しかもそれは生理周期が規則正しく、毎回排卵が起こっていて、先述の懸念事項も皆無の場合の話です。その月に一度の日(それもダメな可能性も十分あり得る)のために、夫婦揃って心も体も整えておくことのまあ難しいこと(タイミング悪く喧嘩してしまったり、どちらか一方が忙しかったりなんてことはざらにあると思うのです…)。更に更に、女性の年齢が上がると流産率はグンと上がります。35歳から急に上がり、40歳になると妊娠しても40%は初期流産に至ります。子どもの障害率も然りです。本当に文字通り、コウノトリ先生の言葉を借りると、妊娠も出産も奇跡でしかありません。でも幸か不幸か、最初のトライで私は妊娠したのです。

さて、そんな予備知識があったにも関わらず、初めての妊娠に私は舞い上がりました。妊娠したら必ず生まれてくるものと、やはり無意識のうちに思っていたのです。診療所で妊娠検査をして陽性反応が出ます。その時点ではまだ胎嚢が確認できないので、2週間後時間を置いて再び受診することになります。ちなみに島の診療所には経腹エコーしかありません。そのため経膣エコーよりも色々なことが分かる(見える)のが1〜2週間遅くなるのだそうです(経膣エコーだと妊娠7週目で心拍が確認されるとしたら、経腹エコーで分かるのは9週目くらいからetc)。

しかし、その2週間を待たずに、私の体は出血を始めました。後で思えばこれが自然流産の始まりだったのですが、例によって島の診療所では経膣エコーが無いため、確定診断をしてもらえません。冬、しかも年末年始だったので、出血の続く不安な状態で数日間過ごし、その後都内の病院を受診し、流産が確定します。初期流産の確率から考えれば決して珍しいことではないのでしょうけれど、それでも一旦舞い上がった分、かなり落ち込みました。それは夫も同様でした。病院からの帰り道、偶然にも友人から結婚報告を受けます。誰かの人生に悲しいことが起こっても、他の誰かには幸せが訪れているということに気付き、もしかしたらこれまでの人生で、私は無意識のうちに誰か他の人を傷つけていたのかも知れないな、なんてこの時は思ったのでした。

その後すぐに私も夫も再チャレンジという気分にはなれず、何度か生理を見送ります。そしてできる限り卵子の老化を防ぎ、妊娠力を上げようと、仕事をかなりセーブし、就寝時間を早めます。これだって家族や身内の協力があってできたことで(突然店のお酒を補充しなくなったり、弁当作りも減ったりしたのはそのためです)、一般企業に勤めていたら難しい話です。更にもともとそこまで飲む程ではなかったけれど、お酒も完全にやめました。毎日基礎体温を測り、排卵検査も続け、とにかく心を整えることに集中しました。それでも生理がカレンダー通り規則正しくやってくる度に落ち込み、他人の妊娠や出産報告には素直に喜べず、という日々が続きます。化学流産も何度もありました。もしかして不妊なのかも?と悩んでも、島内ではそういうことを検査したり相談したりする場もありません。そうこうしているうちに、最初の妊娠から約1年後、再び妊娠します。

最初のことがあったので、当時の診療所の先生もかなり慎重に診てくれました。そして前回の時ははっきり確認できなかった胎嚢が確認され、その翌週の診察でも大きくなっているのが分かりました。「今回は大丈夫じゃないかな」と言われ、安堵したのをよく覚えています。「来週の受診で心拍確認ができたら、母子手帳をもらいに行きましょう」そう言われたのが2021年の年末でした。

年末なので明日からは役場が休みに入るから母子手帳をもらうなら今日という日、再度診療所を受診しました。心拍を確認しようとした日です。しかし、エコーを見る先生が先週とは打って変わって無表情です。画面も私からは見えないようになっていました。何となく嫌な予感がします。そして先生が発した一言が「胎嚢が大きくなっていない」とのこと。あぁ、またか…。その後先生はエコー写真を都内の産科の先生に送ってくれ、恐らく流産ではないかと言われます。しかしながら、また島では確定がもらえません。しかも前回に続き、また年末年始という時期。年が明けたらすぐに都内の病院を受診するように言われ、絶望の気持ちのまま年が明けるのを待ちました。

年末、そして年始にかけては船祝いや成人式があり、島はお祝いムードになります。当然ながら周りの人は私が(確定ではないとは言え)流産をしているなんて知りません。先生が見間違えるはずがないので、私の中でもほぼ流産は確定しているのに、都内の病院を受診するまで待たなければいけないのが何とも歯痒い思いでした。三が日が明け、一年前と同じように都内へ向かいます。夫に一緒に行ってもらった方がいいのではと義母には言われましたが、二人で出かけると余計に色々勘ぐられると思い(島あるある・苦笑)一人で向かいました。移動の際の飛行機や電車においても、「普通の人」として振る舞わなければいけないのが、こんなに辛いのかと実感しました。世の中にマタニティマークはあっても、流産中マークはありません。更に辛いのが、自覚症状が全くないことです。この時は、お腹が痛い訳でも出血している訳でもない、でも心は確実に痛い、そして私のお腹の中では一つの命が亡くなっている…優先席に座っても良い状態だとは思いつつ、見た目は何ら普通の人なのでやはり憚られるのです。

そんな思いで辿り着いた病院にて、今度は稽留流産と診断されます。そして翌日、緊急手術をすることになりました。ここに至るまで、島の診療所での診断から数日経っているので、私の気持ちは最底辺からは少し持ち直していたのです。しかしながら、その都内の病院ではあたかも今初めて流産と診断された人のように扱われ、それはそれで思い出さなくても良い最初の心境になり、落ち込みました。東京で大雪が降った日でした。

翌日、入院して手術。コロナ禍というのもありましたし、一人で島から出てきているので当たり前ですが、入院も手術も退院時も一人で、そのまま帰りの電車に乗り込む自分は本当に「普通の人」でした。誰も私が「昨日稽留流産の手術をしてきた人」だとは思わないでしょう。この時もやはり、周りに言っていないだけで、私と同じような思いをしている人はたくさんいるのではないだろうかと思いました。手術後1週間はすぐに病院に行ける距離にいた方が良いと言われたので、その間は実家で過ごしました(実家も地方だけど、冬の御蔵に帰るよりは東京へのアクセスが良いため)。

手術はいわゆる中絶と同じ方法。まだ姿なんて確認できる程大きくはなかったけれど、何もしていないと自然に涙が流れてきて(恐らくホルモンの影響)、確実に一つの妊娠が終わってしまったのだと実感しました。2回連続で流産したので、年齢のせいもあるとは思いつつ、不育症の検査をお願いしました。しかし、この時の検査では特に異常なし。単に不運が続いただけだということでした。でも最初の妊娠から、再度妊娠するのに一年かかった訳です。できる限りすぐ次のトライをしたい。そうこうしている間にも加齢は進む。でも、手術から生理が再開するまで待たなければならず、しかも数回は生理を見送った方が望ましいと言われます。悶々とした日々が流れます。

そして、3回目の妊娠が発覚します。しかし、この時も胎嚢が大きくなっていないと言われ、再び都内の病院に行かなければならないことに。この流産発覚から都内の病院受診までの間に友人のお祝いの席があり、ここでも見た目が健康体の人間が実はお腹に亡くなった子を抱えていて、その状態でそこに出席しなければいけないことが本当に辛かったのを思い出します。でも他人に話していないのだから、周りが知らないのは当然で、かと言って話して同情されるのにも憐れまれるのにも、もう疲れてしまっていたのです。

過去2回は同じ病院を受診したのですが、3回目の受診では病院を変えました。そこで診てくださった産科の先生からは、もう一度きちんと不育症の検査をした方がいいかも知れないと言われました。島に戻ると、診療所には新しい先生が着任されていました。島では初の女医さんでした。今後のことを相談に行かなければな…と思いつつ、重い腰を上げられないでいたところ、先生の方から連絡をいただきました。「今後のことをご相談に来ませんか?」と。

「同じ30代女性だから気になって(って言っても私は誕生日前でギリ30代、先生は30代前半笑)」というN先生は初対面の時から親身に話を聞いてくださいました。都内で不育症の検査を受けた方がいいと言われたと話すと、「じゃあいつ検査に行きます?」と。「んー、夏前とかですかね…」と答えると、「いーや、今すぐ行った方が良い」N先生に背中を押され、不育症の専門医を何件か調べ、自分的に一番アクセスがしやすかった病院の予約を数週間後に取りました。N先生に出会ってから専門医に行くまで、この間わずか1ヶ月未満。

漫画『コウノドリ』を読んで何となくは知っていたのですが(と言うか、私の妊娠出産の知識はほぼコウノドリからですが笑)、「こんなに患者さんいるの?」と不育症専門医を訪れて思いました。そちらの病院でも先生が丁寧に話を聞いてくれ、こちらが島在住だという状況にもすごく理解を示してくださいました。そして検査の結果はメールで送ってくださることに。そして数日後、検査結果と一緒に送られてきたメールには、不育症の因子があったということが書かれていました。

昔と比べ知名度がだいぶ上がった不妊症と異なり、妊娠しては流産を繰り返す不育症はまだあまり知られていないように思います。一般の妊娠でも流産がそれほど珍しいことではないことに加え(年齢が上がれば更に確率は上がります)、不育症の検査をしても診断がつかない場合も半数近くあるからかと。しかし、幸運なことに、私は診断名がつき、治療法もある、しかも島にいながら治療可能なことが分かったのです。

しかし治療を開始して、すぐに結果が現れた訳ではありません。1日の狂いもなく生理がやってくる自分の体を恨んだこともありました。しかし、数ヶ月後ついに妊娠が分かります。それでも過去3回の経験がトラウマになり、最初の受診から心拍確認ができるその数週間後の受診まで生きた心地がしませんでした。そして、妊娠8週目の受診の日、一瞬誰も喋らなくなる診察室。N先生が震える手でエコーを取りながら「Rさん、聞こえる?これ、心拍だよー!」と!N先生と、私の過去の妊娠全て見ている看護師のFちゃんと、3人で号泣したのが8月の夏休み真っ只中、しかも御蔵はコロナで大騒ぎの時期でした。

その足で役場に母子手帳をもらいに行って、喜んでいたのも束の間。今度は先生から、出産するのは都内の総合病院、又は政令指定都市にあるレベルの病院が良いと助言されます。不育症に加え、高齢妊娠、子宮筋腫あり、血圧高め、という様々な因子が加わった超ハイリスク妊娠だったからです。

一般的に島で妊娠した場合、産科はないのでもちろん出産はできませんが、初期の1回、中期の1回、後期の1回〜出産を除いては島内で妊婦健診を受けることができます。しかし先述の3回は都内、または里帰り先などの産科を受診しなくてはなりません。私の実家があるのは市ですが、政令指定都市ではありません。となると必然的に里帰りという選択肢がなくなります。そこで我が家の拠点がある都内東部で、且つ周産期医療センター(NICUやGCUも併設されている)がある都立病院で出産しようと決めました。

そしてその病院を最初に受診した時に、そちらの先生(のちに私が絶大な信頼を置くH先生)からもやはり何かあった時に病院にすぐにアクセスできる場所にいた方がいいと言われたのと、島のN先生からも、やっと辿り着いた妊娠、大事にしたいからできる限り都内にいてほしいと懇願され笑、妊婦健診を全て島内ではなく都内の病院で受けることにしたのです。

ここにきて、島から内地への交通事情が本当にネックになりました。ご存知の方も多いと思いますが、御蔵島はとにかく交通の便が悪いのです(五級へき地)。客船が就航する季節はまだ良いですが、それでも片道約8時間かかります。海況が悪い冬は就航率がグンと下がりますし、夏でも台風の時期は船は出航すらしません。島民おなじみのヘリコミューターも9席しかない争奪戦ですし、こちらも悪天候の場合は飛びません。その上機体故障も多いのです。という環境下で、ハイリスク妊婦が妊娠中を過ごすのは非常にリスキーでした。

という訳で、島と都内双方の先生と相談した結果、都立病院への通院に近い場所にマンスリーマンションを借り、一人妊婦生活を送ることにしました。島を離れ、家族(愛するニャンズ含む)と離れ、一人都内で暮らすということには正直不安しかありませんでした。当たり前ですがお金もかかります(フリーランスの私はその間無職です)。しかもそれまでの経験から、妊娠中ずっと、もし途中でダメになったらどうしよう…という思いが頭から離れないのです。予定日プラス1ヶ月の日程で部屋を借りたものの、これも無駄になったらどうしよう…という不安が常に頭を過ぎります。

そんなこともあり、最初の数回の妊婦健診は島から通いましたが、妊娠20週になる頃、出産のために島を離れました。何度も書いていますが、それまでも報告しては結局ダメだったと人に伝える度に心が折れ、この4回目の妊娠ですら、途中でダメになるかも知れないという不安が拭えなかったため、本当に極少数の身内にしか妊娠のことは伝えていませんでした。そのことが結局、自分でも予想もしなかった憶測をされることになった訳ですが…(苦笑)。

小さい島なので、色々な噂はすぐに広まります。あることないことならまだ良い方、ないことないことも尾ひれはひれがついて一人歩きしていくような場所です。自分のことは別に何をどんな風に言われても気にしない図太さは身に付きましたが、今回の半年不在大作戦では随分と色々なことを言われていたようです。自分が傷付かないためにとった方法でしたが、結局言わないなら言わないで別方向で傷付けられるんだなぁと学びました。

話がだいぶ逸れましたが、11月から私の都内一人暮らしが始まりました。体調を見ながら旅行や日課の一万歩散歩を楽しむ一方で、常にもしここでダメになったら…という不安が頭の片隅にありました。とにかく毎回のトイレが怖いのです(出血していたらどうしようという不安)。トイレに行く度に神経質にペーパーを確認する日々が何ヶ月も続きました。そして、出かける先々で、妊娠中と気付いてくれた方からは温かい言葉をかけていただくこともありました。そんな中で、「おめでとう」だとか「頑張ってくださいね」「元気な赤ちゃん産んでくださいね」という何気ない言葉にハッとさせられることもありました。頑張っていない妊婦さんなんていない、どの妊婦さんだって元気な赤ちゃんがほしいに決まっている…気にしたらキリがありませんが、やはりこれもかつての私が何気なく他人に言っていた言葉です。こんな言葉ですら、もしかしたら誰かを傷付けていたのかも知れないと気付くきっかけとなりました。

また、いわゆる妊娠中のイベントは何一つできませんでした。くどいですが、常に「途中でダメになるかも…」更には「生まれれからだってどうなるか分からない」というのが頭の中にあるのです。ジェンダーリビール(結局最後まで性別は聞かなかったのですが)やベビーシャワー、産後施設の見学、果ては生まれたら必要になるものの買い物までギリギリまでできませんでした。赤ちゃん用品のお店のほとんどが、事前に色々なものをくれるので、もっと早く行けば良かったと後から思ったのですが笑

それでも何とか妊娠30週に漕ぎ着けたあたり、恐れていたことが起こります。突然出血したのです。すぐに病院に連絡して駆けつければ良いのに、何故かこういう時に出る私的島民マインド、「こんな時間に連絡したら病院に迷惑がられるかも知れない」、そして正常性バイアス「きっと大丈夫だろう」。それでも恐る恐る病院に電話をして、「様子見でも大丈夫ですか?」と聞くと、心配だからすぐおいで、とのこと。ほぼ半泣きで病院のERに(夜だったので)向かう間、生きた心地がしませんでした。時間外だったのにH先生が待っていてくれて、その時点で半泣きから4分の3泣きに笑 しかも診てもらった結果何でもなかったのです…!むしろ懸念事項もなく、とても順調な妊娠です、とも笑 こんな時、この程度で大騒ぎで来てしまって申し訳ないと思ってしまうのですが、「ちょっとでも違和感あったら、遠慮なく電話しておいで」と言われ、ここで号泣です(通常時でさえ涙脆い私、妊娠中で涙腺常に崩壊しています笑)。行きは仰々しく車椅子で運ばれましたが、帰りはスタスタと歩いて帰って来ました笑 結果笑話になったけれど、この時ほど自分の境遇に感謝したことはありませんでした。離島在住だけど都民であること(都立病院通える)、義母の出身地がこの辺りであること(だからこの病院にした)、不育症だったからH先生に出逢えたこと(専門医)など。

さて、そんなこんなでやっと正産期に辿り着き、あとは陣痛が来るのを待つのみに。それまでは出血に怯える日々なのに、今度は出血を待つ側になるなんて!が、38週になり、それまで何とか薬も飲まずに頑張っていた血圧がだんだん下がらなくなり、子宮口も2センチ開いてるので、それまでに陣痛来なければ2日後に入院しようということに。「じゃあ、いよいよだから気持ちを盛り上げていきましょう」とH先生に言われ緊張MAXに。結局その日も翌日も歩きまくったけど陣痛は来ず、予定通り入院する日になりました。

入院の日、ちょうど都内にいた義姉と甥っ子が病院まで付き添ってくれたのですが、本来は陣痛が来た時点で自分で病院に連絡して、荷物を全部持って陣痛タクシーで病院に向かう予定でした…って、そんなの絶対無理だったじゃん!と、陣痛を経験した今なら分かります笑 それまで整体でも外科の手術でも、数々の場所で痛みに強いね!と言われ続けてきたので、自分は痛みに強い人間なのだと勝手に思い込んでいました。だから陣痛だってきっと大丈夫だろう、と高を括っていました。でも陣痛は全くの別物でした。最初、そんな風に考えていた自分を本当に殴りたいです笑

朝入院してすぐ、子宮の入り口を柔らかくする薬が投与されました。それが上手くいけば陣痛に繋がるのだそう。とは言われたものの、体に何の変化もなく、WBCも気になりつつも見れるはずもなく、ベッドの上で暇過ぎて爆睡、そして自分のイビキで目覚める始末。その間も隣に入院している人はずーっと痛い痛い言っていて、あー陣痛来てるんだなぁ、さすが大潮だなぁ、なんて呑気に構えていました、この時までは。

お昼ご飯も普通に食べて、助産師さんと島談義する余裕もあったのです。で、携帯で好きなゲームでもやっておくといいよ、と言われた辺りから体に異変が。

何か痛いかも知れない…とりあえず携帯いじる気にはならない…と急に無口になる私(でも初めてなので陣痛だと気付いてない笑)。H先生がカーテン開けて「痛い?」と聞いてきた時には「痛いです」と言うべきところ、「痛い…」としか答えられず、はっ!私としたことが、H先生にタメ口をきいてしまった…!ということだけが頭から離れず(だから陣痛だって、それ笑)。

とりあえず意識が途中で途切れる。よって記憶もマチマチ。夕飯が出てきたので夕方だったのでしょう。確かカジキの煮付けだったような記憶。でも全く口にしようなんて気は起きず。その上、助産師さんか誰かに、まあ明日には産まれるんじゃないくらいのことを言われ、絶望しました(だってまだ夕方…)。

夕飯食べられなさそうならトイレに行って少し軽くすれば一口くらい食べられるかもよと言われたので、トイレに行くもその間も何度も陣痛の波が(さすがにこの辺りでは陣痛だって気付いた笑)。で、やっとの思いでトイレを出ると、食事はおろか荷物も全て片付けられていて、ベッドに座ると助産師さんから「こっちよ〜」と言われ、分娩室へ連れて行かれました。

とりあえずそんなにお産が進んでいる実感は全くなかったのですが(誰も教えてくれないし、何なら明日とか言われていたし笑)、分娩台に上がる頃にはもう自分で自分のことが何一つできない状態でした。とりあえずされるがままになり、意識朦朧。陣痛が来る度に息を止めるなと言われるも、そんなの無理。なんていうのを何度かやっていたら、今度は赤ちゃん苦しそうになってきたから、帝王切開になるかも…と!ここまできて切るんかい!という思いと、それで終わるなら終わってほしいというジレンマが私を襲います。緊急帝王切開には血液検査やらレントゲンやらが必要とかで、陣痛来つつ意識朦朧状態の分娩台の上で、もう好きにしてください状態。それでも終始痛い、触るなと叫び騒ぐ私笑。

分娩台の握るところを力一杯握っていたら、H先生がそれだと力が入り過ぎるからとおっしゃってご自身の手を握らせてくれたので、私は意識朦朧の合間にもこれ幸いと、その後ずーっとH先生の手を握っていました笑。

H先生以外が何かしようもんなら、お前らは触んじゃねぇ!痛い!!無理無理無理!!!とギャーギャー騒ぎ(恐ろしいほどの醜態笑)帝王切開騒ぎも何だったのか、そうこうしているうちにお産が進んだようで、今度は痛くなったら息を止めろという無理ゲーが課されます。もうそこにストップボタンがあるなら、これまでの努力を捨ててもいいくらい、今すぐに全てやめたい極限状態です。その上で、これをあと5回くらいやったら産まれるとか言われるのです。そんなにやるの?と意識遠のく頃、血圧が上がり過ぎて、「少しお手伝いするね」と言われ、噂の会陰を切られ(たぶん)、最終的には鉗子分娩で拍子抜けするほどスルンと産まれてきました。

生まれたら泣くかと思ったのに(自分が)、思いのほか最後がスルンといったもんで、泣くタイミングがなく、H先生が「よく頑張りました」と言ってくれて初めて涙が。それにしても、私左手で先生の手を握っていて、でも生まれる瞬間は先生下にいて赤ちゃん取りあげてくれていて、その後右手で先生の手を握っていたんだけど、記憶が途切れ途切れなので先生が瞬間移動したとしか思えません笑。

さてさて、結局分娩時間6時間、初参にしては脅威の速さだそう。結局、先に入院して痛い痛い言っていた隣の人より先に産んでしまった訳です。そしてありとあらゆるところが裂けたので笑、分娩後2時間分娩台の上で縫われっぱなし。その間、隣でギャーギャー泣いている我が子。側から見たらさぞやカオス。そんな出産でした。

さて、出産後1週間足らずで退院する訳ですが、そこからの1ヶ月が本当に辛かったです。まず体が全く動かない。そして眠れない。更にホルモンの影響でとにかく勝手に涙が出てくる。この辺の状態は、事前に読んだり聞いたりして知ってはいたのですが、いざ自分の身に起こるととにかくしんどい。授乳する側もされる側もお互い初心者なので、全く上手くいかない。そんな日々でした。退院後すぐは夫や義姉、義母のサポートがあったのですが、もちろんその後もずっといてくださいという訳にはいきません。

この時特に実感したのは、晩婚・晩産化が進めば、必然的に妊産婦の親の年齢も上がるということです。私の年齢になると親の方が介護が必要な状態なことも珍しくありません。親が高齢だったり、実家が遠方だったり、そもそも実家がなかったり…と誰もが実家を頼れる(里帰りできる)状況ではない訳です。そもそも夫婦の子どもなのだから、実家を頼るという前提に社会が成り立っているのがおかしいという意見も理解はできます。しかし実際、島の小規模事業所などは僅かな人数で仕事を回しているのです。育休はおろか、有り余る有給があっても、休んだ場合の仕事を誰かが補填してくれる訳ではなく、休み明けに自分がやることが積み上がっているだけなのです。そんな状態が痛いほど理解できるので、夫にも長く休んでくれという訳にもいきません。

産後ケアのサービスを多くの自治体が行っていることも知りましたが、御蔵島村民である私は、当然ですが住民票を移してはいないため、滞在中の区内ではそれらも受けられません。「助けてほしい」と声を上げることが大事だと、事あるごとに色々なところで言われましたが、実際誰に、どこに助けを求めれば良いのか全くわからないのです。結局私は民間の産後ケアホテルを利用しましたが、とても良い施設ではあるものの、お財布には全く優しくない笑。そういうことからも、人には勧めづらいな、とも思いました。

異次元の少子化対策が叫ばれて久しいです。それなのに、子どもを持ちたいという当たり前の願いが、嗜好品を持つのと同等に捉えられている気がします。とにかくお金がかかり過ぎるのです。不妊治療は保険適用になりましたし、都民であれば不妊症や不育症の検査の助成も受けられます。それがあるだけまだいい方かも知れないと地方の話を聞いて思いもしますが、それらは微々たるものです。妊娠するまでにお金がかかり、妊娠中も更にかかり、産後もお金がかかるのです。若いうちに妊娠出産できればそれに越したことはありませんが、就職してすぐに妊娠をしたり、連続で産休育休を取ったりすれば非常識扱いをされ、仕事の方に比重をおけばあっという間に高齢出産の域です。キャリアを諦めたり、職場に迷惑をかけたくないと働き方を変えたりしても、終いには産育休中に学び直しまでしろと言われるのです。経済面、年齢的な問題、そして職場との兼ね合い、さまざまな理由で子どもを諦めた人たちも沢山見てきました。生まれた後も保育園に入れなくて仕事を辞めなければいけなかった同僚もいました。そしてそれらの多くが女性です。出産は女性にしかできないので、その時どうしても職場を離れなければいけなくなります。その結果、仕事を辞めたり変えたりする多くが女性になる現実。でもそれらの女性だって、多くの男性と同様に学業を積み、キャリアを重ねてそこまで進んできたのです。何かを得ることの引き換えに、何かを諦めなければいけないのは正しいことなのでしょうか?そして果たしてこれは個人の努力だけの問題なのでしょうか?

今はまだ自分自身の経験から何が必要なのか、何だったらできるのかをリストアップしているだけに過ぎませんが、ゆくゆくは子どもを望む全ての人たちが、誰に気兼ねすることもなく、ほしいと思った時期に授かれる社会にしていきたいと切に思います。

とても長くなってしまいましたが、改めてこの私の数年間を支え励ましてくれた多くの皆さんに心から感謝いたします。ありがとうございました。