SNSの棲み分け

忘れもせぬ今月の始め、衝撃的な出来事があった。

東京国立博物館で開催されていた特別展「きもの KIMONO 」。これにYOSHIKIさんが手がけるYOSHIKIMONOも展示されるというので、本当は見に行きたかったのだけれど、コロナ禍で気軽に出島できる訳もなく、図録だけ購入したのだった。それをTwitterでつぶやいたところ、数分後、「ピロリ〜ン」というお知らせ音が。スマホの画面を見ると、

よっちゃんからフォロバされた😭❤️❤️❤️

なんと、あの世界のYOSHIKI様からフォローされたのである。ビックリも何も、何せその瞬間スマホを手にしていたもんで、そのバイブレーションと自分の心臓の鼓動がリンクして文字通り心臓が止まりそうになった。そしてその瞬間の手の震えはいまだに忘れられない(笑)。

YOSHIKIさんにせよ、ToshIさんにせよ、ファンをフォローバックしてくれることで有名なのだが、まさかの自分のTwitterも目にしてくれたのかと思うと感慨深い(その時のフォロワー1人のアカウント笑)。

私のTwitterアカウントは、一年くらいで作っては消し、再度作っては消し、の繰り返しでこれまで長続きしたことがなかった。Twitterは主に情報収集のためと思って見ているのだが、何かしら呟きたくなってしまうことがある。呟き始めると、いかにバズるかというネタを投下することに固執するようになり、結果その狭い世界だけで受け入れられることだけを求めるようになり、視野を狭めることになるな、と思うのだった(確か鎮座dopnessさんがそんなことをおっしゃっていた)。

教員時代によくSNSの使い方指導なんていう場面に出会すことがあったのだけれど、よく生徒には鍵を付けてまで見られたくない人がいるなら全世界に発信するな、と言ったものである。とは言え、発信したいと思うのは、それを伝えたい、共有したい共感してほしい「誰か」がいるのだろうな、というのは理解できる。だから自分だけの「日記」ではおさめられない人が多いのだろう。

そんな訳で、私の近年のヘビーユースはInstagramだったのだけれど、先述の関係でTwitterを使う頻度が上がってきた。その上で、TwitterにはTwitterの文化があるのだと毎日実感しているのである。

これはTwitterの文化というよりは、おそらく運命共同体(Xファンのこと)がこのように使っているだけなのだと思うけれど、例えば、「YOSHIKIさんからフォロバされました〜!」のような呟きをする。すると瞬く間に、「おめでとうございます!」リプの嵐である。そして朝に晩にYOSHIKIさんはもちろんのこと、ファン同士お互いを気遣う。「今日も暑くなりそうです!熱中症に注意しましょうね!」とか「今日も1日お疲れ様でした!」こんな具合だ。

これはインスタやフェイスブックにはない文化である。140字の中に思いやりを凝縮させ、それがファボされたりリツイートされることで更に広がる。

もう少しSNSについて書きたかったのだけれど、1日の投稿に費やす時間を決めてしまったので、続きはまた後日。